付録1. 「現代的総合」は「拡張された総合」へ向かうのか?
第5章 進化について考えてみようの補足A
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進化生物学は激動の時代を迎えており、めまぐるしく進展している
1930年代~40年代にかけて「現代的総合(modern synthesis)」と呼ばれる歴史的運動が盛り上がりを見せ、「進化の総合説」という統一見解が確立されていった
今論争されているのは、新たな研究分野の出現によって進化の総合説の枠組みにどの程度の修正が必要になるか、ということ
現代的総合
ダーウィンのダーウィニズムにぽっかり空いていた穴を、遺伝学理論を取り込むことによって埋めた
ダーウィンは形質がどうやって遺伝するのかを説明する適切な理論を構築することはついにできなかった
ダーウィニズムとメンデリズムは別々に発展し、20世紀の最初の10年間、両者は反目することも多かった
現代的総合は両者をシームレスに融合させてその食い違いを解決したのだから、進化の総合説こそが正統派ダーウィニズムだとみなされるようになったのも不思議ではない
現代的総合により、古生物学や系統分類学など、生物学の他の領域もうまく統合された
そういうわけで、進化の総合説を「総合」と呼ぶのは決して大げさではない
しかし、生物学の大きな分野である発生学があからさまに除外されており、その理由自体が議論の的になっている
エルンスト・マイアいわく、発生生物学者も招待したのだが、向こうから参加を断ってきたのだと。
当時の発生生物学者のほとんどの見解は逆で、招待といってもしぶしぶであり、何かと条件がつけられていたというのである
コンラッド・ウォディントンをはじめとして先見の明のある複数の人達が、どちらの分野にとっても必須なのだと主張して統合するように懇願したにもかかわらず、発生生物学と進化生物学はそれぞれ独立に発生あるいは進化を続けていった
発生生物学はダーウィンのダーウィニズムに重要な役割を果たしたものなので、それが進化の総合説から除外されたことは、進化生物学の進化にとって重要な影響をもたらすことになった
Hall, 1992はウォディントンの経歴をうまくまとめている
ウォンディントンの目指したものは、最近になって、進化発生生物学と呼ばれる総合的研究プログラムと言う形で実現されてきている
evolution(進化)とdevelopment(発生)の頭の部分をとって「エヴォデヴォ(evo devo)」と省略されることが多い
今のところ、エヴォデヴォの重要性は論争を巻き起こしている
よくある反応は、エヴォデヴォは大げさに宣伝しすぎであり、進化の総合説を特段揺るがすようなものではない、というもの
このような態度をとっているのは一部の集団遺伝学者である
概して、進化に関わる事柄で「理論化」として権威をもてるのは自分たちだけだと考えている人たちだ。
ジェリー・コインは特にこのような態度の擁護者である
たとえば Coyne, 2005(Carroll, 2005aのレビュー)、Hoekstra & Coyne, 2007など。
正統派ダーウィニズムを冒涜するものとしてコインが特に反対しているのは、群選択、同所的種分化、複合突然変異、生物学的種概念への代案、エピジェネティックな遺伝、ライトの平衡推移説(あるいは集団遺伝学についてのR・A・フィッシャーの観点から逸脱したものすべて)である。
その対極にあるのは、リンジー・クレイグのような、進化の総合説を徹底的にオーバーホールする必要がある、と主張する人たち(Craig, 2009)
両者の間には、ブライアン・ホール、ゲルト・ミュラー、ショーン・キャロル、マッシモ・ピグリウッチなど、多数の様々な進化学者が点々と散らばっている
彼らは両極端な見解を拒絶し、その代わりに「拡張された総合(extended synthesis))を求めている(Pigliucci, 2007; Pigliucci & Muller, 2010; Carroll, 2005b; Carroll, 2008; Hall, 2004; Tauber, 2010)
彼らのゴールは、エヴォデヴォやゲノミクス、エピジェネティクスなど近年の分子生物学の発展の力を借りて、硬直したように見える枠組みをゆるめること
率直にいえば、私はこのあたりに共感する
いずれにせよ、家畜化過程を解明するにはエヴォデヴォが決定的な役割を果たすことになるだろう
エヴォデヴォ的観点の行動への拡張はToth & Robinson, 2007を参照
遺伝子と表現型
現代的総合以来、進化に関する論考は時とともに遺伝子中心になっていった
いまや、進化とは形態が変化することではなく、遺伝子頻度が変化することと定義するのが標準的である
遺伝子中心主義の典型はジョージ・ウィリアムズが提案しリチャード・ドーキンスが広く普及させた、「進化を遺伝子中心の視点で理解する」考え方だ
それによれば、進化は終始一貫して遺伝子間の競争である(Williams, 1966; Dawkins, 1976)
つまり、個々の生物体ではなく、遺伝子こそが進化の真の主体であるという
生物は単なるビークルにすぎない
エヴォデヴォの支持者の一部を含め、遺伝子中心的なアプローチを批判する人たちは、このアプローチは、ダーウィンのみならずマイアのような現代的総合の構築者たちまでが関心を持っていたことの大部分、なかでも、生物の形態や形態の複雑さに変化をもたらしたのは一体何か、ということを置き去りにしているではないか、と嘆いている
この批判の根拠となるのは、ある個体のもつ遺伝子(つまり遺伝子型)は、自然選択が働きかける対象である、身体的・行動的形質の総体である表現型と、直接的に一対一対応はしない、という観察
進化にとって遺伝子自体は選択過程で見えるものではなく、むしろ進化が見ているのは表現型の方
メアリー・ジェイン・ウェスト―エバーハートは「表現型が先を行き、遺伝子がその後に続く」とまで言っている(West-Eberhard, 2003; West-Eberhard, 2005)
生物の発生過程には可塑性があり、環境の変化に対してまず最初に起こるのは、この発生の可塑性による適応である
発生過程の変化によって表現型が変化し、その表現型が自然選択を受け、それによって遺伝子にも変化が生じる
表現型中心的な考え方を強化しているのは、議論の余地のない2つの事実だが、この事実は遺伝子中心的な考え方による進化からは問題ありとされる
一つは、表現型が大きく変化していても、ゲノムには小さな変化しか見られないことが多い
ペキニーズは祖先であるオオカミから大きく変化しているが、遺伝的な変化はごくわずか
もう一つは、先の事実と逆に、遺伝子レベルの進化の多くは表現型にほとんどあるいはまったく影響しない
カブトガニの系統は、数億年間ほとんど変化していないが、ゲノムは節足動物一般に典型的なスピードで進化し続けている(Lavoué et al., 2010)
ゲノミクス
発生生物学は進化の総合説に組み込まれなかったのだから、エヴォデヴォが、一般に認められた現在の見解に異議を申し立てるのは当然だ
しかし、ゲノミクスならもっとスムーズに進化の総合説に溶け込めそうである
特にごく最近の遺伝子中心的な考え方には親和性が高そうだ
だが、現代的総合において考えられたように、遺伝子は純粋に抽象的な存在
当時、遺伝子がDNAで構成されていることは誰も知らなかった
そして、進化の総合説がますます遺伝子中心的になってきてさえも、遺伝子に対する見方は1930年以来アップデートされていない
例えば、集団遺伝学では、遺伝子は概して実体のない抽象的なもの
分子生物学が明らかにした物質としての遺伝子という考え方を、進化の総合説はいまだに受け入れていない
そして、ゲノミクスとエヴォデヴォという2つの研究領域は、互いに補い合うよい関係なのである